この追悼にあたり、森さんの親友でありました堀地清次さんと宗形文和さんより追悼文をいただきました。心より御礼申し上げるとともに、このHPにご訪問いただいた方は、是非お読みいただければ幸いです。森正弘さんの良き人柄が偲ばれる事と確信いたします。
 また、森正弘さんのクライミングに対する考え方をよく著した文章があります。それは、2003年1月21日に私の主宰していたクラブの講演会で講演していただいた時の「フリークライミング上達法」と題したレジュメで、森さんの原稿を私が校正、清書したものです。これも是非お読み下さい。いまどきのクライミングであっても十分に耐えられる内容ですし、森さんのクライミングに対する真摯な対峙の姿勢を知る事ができます。
    「フリークライミング上達法」(森 正弘) ←クリックするとご覧になれます。
 私たちは小川山や城ケ崎でそしてスミスロックでよく一緒に登った。
 私に子供が出来て少しクライミングから遠ざかった時期からは、居心地の良い森さんの伊豆の家に招かれてそこで多くの週末を私たちは一緒に過ごした。
 二人ともバイクが好きでよく一緒に乗りに行った。そして一緒にクライミングをした後夜になると様々なことについて議論した。クライミングはどうあるべきか、モラル、ルール等の議論は果てしなく続き結論が出ることは無かった。概して私たちの意見は食い違いを見せたが根本的なところでお互いを認めあっていたと思う。
 森さんはすぐに「クライミングはこうあるべきだ。あんなクライミングはするべきではない」というようなことを言うので人とぶつかり合って理解されなかったり気難しいと思われることがあったけれど、それも長い人生の中での途中の話でやがてその考えを多くの人が理解し、クライミングにおいて多大な貢献の集大成を成し得るでありろうと私はひそかにしかし確信を持って思っていた。しかしそれも今となっては夢のまた夢となり、私は自分のこの考えを森さんの考えと思っていたためにそれがかなえられずとても悲しい。
 もし生きていれば俺はそう思っていたけれどどうかと聞いてみたい。私が議論を吹っかけると、それはこうだと嬉々として答える議論好きな森さんの姿が目に浮かぶ。
 その後彼が伊豆の家を離れてしまってから我々は疎遠になっていたが、私はいつか一緒に登る日がやってくるだろうと心に描いていた。一緒に登らなくとも私たちはつながっているのだ。
 なくなる三日前に病院にお見舞いに行き久し振りに話すことが出来た。そして森さんが我が子のように可愛がってくれた私の息子の成長した姿も最後に見せることができた。
 「おまえのところに預けてある俺の新しいバイクのブーツを送っておいてくれ」といわれ「分かった、送っておくよ、また来るから」と言って別れたがその後こんなに早く逝ってしまうとは思わなかった。
 森さん、あなたはわがままなところもあって、誰からも好かれるということは決して無かったけれど、あなたの魂の純粋さと美しさによってあなたは立派に生きたのだと思う。
 あなたという人間を思いおこすとき、そのクライミングに対する純粋さは私にとって遠く及ばないところがあって、ある意味死によってあなたのその純粋さを永遠にとどめていくことになるのか。あなたの純粋さと真面目さはクライミングの今という時代にもしかしたら合わなかったかもしれないが、クライミングの本質とは何かを突き詰めて問い続けたあなたの姿勢は、いつまでもクライミングの自由と孤独の象徴として私には忘れることが出来ない。

僕と森さん  宗形 文和(ICI石井スポーツ勤務)

 僕と森さんが出あったのは、今から10年前。僕がICI石井スポーツに入社した時だ。「どこのカラビナ使っているの?」学生時代にたまたま買った「DMMです」と答えると、「○○△△で作っているよね」という理論的な返事が返ってきた。なるほど、特にこだわって買った訳ではないが、その通りだ。それが山道具屋として、道具へのこだわりというものを知った第一歩だったかもしれない。その後も定期的に、手書きの文字がびっしりと書き込まれたクライミングシューズレポートなどを読ませてもらた。いまでもそれは僕のバックボーンとなっている。
 クライミングでは良く誉めてもらった。貧弱な上半身に比べ発達した「下半身がいい」とか、「山岳部らしい落ちないクライミングがいい」とか。しかし残念ながら集中力のない僕には森さんを喜ばせるような進歩はなかった。
確か城ケ崎のおたつ磯だったかと思うが、散々苦しんで登れなかったハングぎみのトラバースがあった。周囲にいた人から声を掛けられる事もなく敗退したが、次の誰かがそのワンポイントを「足ブラ」で登った。衝撃的だった。
 岩場ではやかましいほど、1ムーブ1ムーブに指示を出す地上指導員や、またそれを求めるクライマーがいるが、それらを近くで聞いているとうんざりする。
「昔はよく声を出していたけど、それだと自分を超えるクライマーは育たないからね。でもそれがわかるまでには犠牲にしてしまった生徒がたくさんいるけど」
 森さんを超えるクライマーが育ったかは知らないが、僕はその時、人を育てることについて教えてもらった。
 そして一番気が合ったのが共通の趣味であるバイク。ライディングポジション、グリップの限界を超えると転んでしまう点など、クライミングに共通する点は多い。夏の暑い日、箱根や伊豆を共にバイクで走った。僕にとって唯一、バイクの話が出来る人だった。
 バイクを何台も乗り継いできた森さんだが、最後に乗ったのがCBR1000RRだった。「公道では400cc以上の馬力は使い切れないから必要ない」と言っていたのに、例のごとくそれは突然翻った。初めから入れ替えた社外マフラーを轟かせ、お店へお披露目に来た。
「これじゃーサーキット走らないといけないですね」
一言「必然でしょう」
しかし残念ながら結局それは実現しなかった。
一つの道具を修理しながら長く使い込む森さんだったが、ガレージに残された新品の皮つなぎが悲しく見える。

クライミングとバイクを心から愛した森さん  堀地 清次

略歴

1974年20歳でアメリカのヨセミテでフリークライミングの洗礼をいける。以後、日本のフリークライミングの水準を上げるための活動を行い御在所岳、三ッ峠、城ケ崎での初登ルートを多く持つ。
また、早くからボルダーリングにフリーの魅力を見出し、数多くのプロブレムを城ケ崎に作る。同時にウエイトトレーニングの重要性を認め、自ら取り入れるとともに80年代前半にはその研究発表とも言うべき連載を「岩と雪」に載せる。
1983年からはフリークライミングのプロとしてICI石井スポーツのアドバイザーとなり、用具とクライミング技術の研究を続けながら講習会等を積極的に行う。
2004年4月よりファイブテンの輸入代理店である潟Lャラバンのプロクライミングアドバイザーとなる。
同時にM’sクライミングラボを主宰し、講習会とともに子供のクライミング指導に力を注ぐ。
雑誌「岳人」2004年1月号より「フリークライミング用具系譜」を連載。長年の用具研究と多くのクライミング経験から書かれた記事は好評を博す。
2006年8月2日 病気により逝去

森 正弘 Climbing Biography
 森正弘さんは、生前自らのクライミングをノートにまとめていました。そのノートから、森さんのクライミングの歴史と生き様を知ることが出来ます。私はこのノートを読むのは初めてですが、あらためてクライミングに対する先進的な考え方に驚きます。

1954年1月12日 名古屋市に生まれる。
  小学生時代  多少肥満気味で、自分は運動能力が低いと感じていた。
  中学生時代 心配した父親の協力のもと、キャッチボールや卓球などを勤しむことにより肥満が解消されるとそのとたん運動能力
           を発揮し始める。
  高校生時代 明和高校に入学、山岳部に入部し鈴鹿の山を中心に登山活動を始める。中でも岩登りに夢中になってゆくが、その
           理由を恐怖心が強いことによりせっかく発揮され始めた運動能力がうまく生かされない事へのジレンマに直面し、よ
           り興味を覚えたからだと後に語っている。
1972年  地元名古屋で就職し、クライミングを追求しようと公務員試験にも合格していたが常々名古屋周辺の閉鎖性に問題意識
        をもっていたので、思い切って東京に出ようと決意する。
        芝浦工業大学金属工学科に入学。
        山学同志会に入会。当時一番先鋭的な活動をしている山岳会だと思い入会するが、時代はエベレスト一色で、思い描い
        ていた世界との違いに戸惑いを覚える。だが、そこでアメリカの雑誌「マウンテン」に特集されていたヨセミテの存在を知
        る。これこそが自分の思い描いていた世界だと直感し、ヨセミテ行きを決意する。
1974年  家庭教師のアルバイトで貯めたお金で単身アメリカのヨセミテに向かう。1ドル360円の時代である。
        そこで見たもの体験したクライミングは、まさにデジャブだったと語った。自分の望んだもの、理想のクライミングがそこに
        あった。まさにフリークライミングの洗礼を受け、クライミングギア(不レンズやナッツ等)を買い揃え持ち帰る。
1975年  二回目のアメリカヨセミテツアーに出かける。アメリカの友達に勧められアメリカにに残りクライミングを続ける道もあったが
        この地でで得たものを日本で実践することこそが自分がすることだと考えるに至る。
        この後10年間、日本での活動に専念する。
        東京に暮らしながらも、自分のホームゲレンデである三重県鈴鹿にある御在所岳に5.9〜5.10+程度のルートを数多
        く開拓する。御在所の「うさぎの耳」と言う名の岩峰に、恐らく日本初の5.9とグレーディングしたルートを初登する。
1980年  御在所岳の中尾根バットレスにあったエイドのラインを、残置ボルトのプロテクションでフリー初登する。
             御在所のおける開拓(初登) 1975年〜1982年 (本人のメモのままに記載)
          1975年11月  ウェイクアップ(トップロープ)
          1978年 6月  アウトオブサイト(トップロープ)
          1979年 8月  シュミレーション(フラッシング)
          1980年 8月  カリフォルニアドリーミング(1〜3ピッチ)
                 9月  狭き門(トップロープ)
                 9月  カット・イン・コーナー(トップロープ)
                10月  ハングオーバー(トップロープ)
                10月  アウトオブサイト・バリエーション(トップロープ)
          1981年 5月  シュミレーション・前田バリエーション(リード)
                 5月  キャセイパセフィック(フラッシング)
                 6月  宇宙遊泳(テンション、ロワーダウン無し)
                 7月  サスペンション(トップロープ)
                 8月  へびの皮(フラッシング)
                 9月  見かけ倒し(フラッシング)
                     宇宙遊泳(マスタースタイル)
                10月  ハングオーバー(マスタースタイル)
                     「岩と雪」84号に「フリークライミングの自覚を問う」を初投稿。これはホームゲレンデの御在所でお
                     ける、アイゼンによる岩場破壊に問題を投げかける内容。
          1982年  6月  カリフォルニアドリーミングのボルト撤去
                        ボルトを打ちながらリード(1P森、2・3P北村)、2P目はウインドサーファー
                 8月  サスペンション(プリプロテクション))
                      マッドモイスト(フラッシング)
                 9月  スライドオーバー(フラッシング)
          1983年  9月  「山と渓谷」9月号に「青春はあさまし」と題されたエッセーの中で、山全体に取り組まず局部(岩)
                     にしがみついている若者(実名は明かされていない)と批評される。
                10月   カリフォルニアドリーミング4P目(A03回、EBシューズによるトライ、フォール多数)
                12月  「山と渓谷」12月号に「いま、ボウルダーリングは最高にエキサイティング」と題するエッセーを寄
                     せる。これは「青春はあさまし」への反論を書きますか、との問いに答えたもの。
1983年6月〜1984年2月  「岩と雪」96号〜100号に「クライマーのためのウエイト・トレーニング」を連載。
1984年 2月  パープルチャイルド(城ケ崎、ファミリー)初登 下部はボルト、上部はナッツ
                本人は5.10cに感じていたが、後に5.11a/bとなっている。
      3月  ドゥービーコーナー(湯河原幕岩)初登 ナチュラル・プロテクション
                本人は5.11aとグレーディングしたが、後に5.10bとなっている。今は自然に戻っている?
          デルトイド(城ケ崎、ファミリー)初登 ボルト3本。1本目のボルトが高いと言われるが、左の溝にスモールナッツが決
                まる。本人は5.11bに感じていたが、今は5.11aとされている。
          奔馬(城ケ崎、ファミリー)初登 オールナチュラルのルートで5.10b
                あまり登られていないようだが、登ってみるとなかなか面白い。
          *パープルチャイルドとデルトイドは、城ケ崎においてフリークライミングの意識で打たれた初めてのボルトラインだと
            思われる。後のフェース全盛の時代の先駆けか?しかし、その後カメノテに1本のボルトとスモールナッツで初登
            した「分水嶺」以後、ボルトルートは作っていない。その名のとおり迷って打った分水嶺のボルトも自ら抜いている。
       5月  カリフォルニアドリーミング4P目A0(靴・フィーレ)
       6月   悟空ハング(城ケ崎、おたつ磯)第2登
       7月  サバイバル(北海道、赤岩) 5.11aとしたが、後に5.10c
       9月  ブレークフリー(仙台、丸森)初登 5.10c
       9月   日本のルートをグレーディングしてもらうために招聘した英国のクライマージェリー・モファットの登り、プロテクション
            技術、ボウルダーリング能力の高さに強烈なインパクトを受ける。
1984年〜1985年  城ケ崎のあかねの浜やしりいだしにトップロープ・プロブレムを数多く設定。
1985年 2月  城ケ崎のあかねの浜にニューヨークのクライマー、ラス・クルーンと共にテクニカルテクニカルマスター(5.12a)、ス
           リーフリーウェイ(5.11c)、バランスオブパワー(5.12)を設定。グレーディングはラス・クルーンによる。
       3月  バランスオブパワーをリード初登(5.11+k/5.12-)  現在は5.11cとなっている。
       6月  トラペジアス(5.11+)初登 三ッ峠の草溝直上の左のオーバーハングしたボルトのフェースルート
           三ッ峠のキーホールの直上ラインをトップロープ課題として初登(5.11+)
       8月  約一ヶ月余り小川山廻目平に滞在。5.10〜5.11クラスのクラックを多数登る。
           イムジン河(フラッシング)
      10月  難攻不落だった御在所中尾根バットレスのカリフォルニアドリーミング4P目が完成。「デスバレー」と名付けられ
           た。これは、両手が離せるレッジまでのロワーダウンを含む。なお、このルートの各ピッチには、以下のとおり名称
           が付けられている。
                1P ゴールデンゲート   2P ウィンドサーファーとサンタモニカの2ルート
                3P ランバート  4P デスバレー  5P ホットスプリング  6P ベイブリッジ  7P アルカトラス
1985年12月  城ケ崎おたつ磯のモファット・トラバースに成功。後に悟空ハング下まで繋げ、スネークを完成。
              この頃から、城ケ崎において多くのトラバース課題を設定。
               浮山トラバース、おたつ磯モファット・トラバース、スネーク、ファミリーのデルトイド下トラバース。
               あぶなねのうろこトラバース、門脇南のボルダートラバース、漁火リッパートラバース二種類、カメノテトラバ
              ース、石切場のチェーンスモーク(設定者は別だが延長)、あかねの浜のボルダートラバース、バンブー北の
              磯のこうもりトラバース等。
1986年 2月 リボルバ(5.11+)初登 城ケ崎のおとじろう。クラックでないルーフのナチュラルプロテクションでルートを拓く。後に
              ホールドが欠け易しくなったようだ。
       6月 タッチアンドゴー(5.12+)を拓く。御在所岳のボルトルート。
     8・9月 アメリカのスミスロックとヨセミテへツアーに出かける。ヨセミテは10年ぶりの再訪。
           スミスロックでは「チェーンリアクション」や「スピリットイメージ」等の5.12〜5.12+のルートにトライするが,、動きは出
          来ても繋がらないと言う問題に直面する。これは後にアラン・ワッツによりエンデュアランス性という言葉で解説され
          た垂壁での困難性の特徴であり、解決の鍵はレスティングにあった事を理解する。
1987年 3月  こうもりトラバース(バンブー北の磯)スタート地点より前半のセクションを完成。
      ?月  こうもりトラバース完成。本人はグレーディングしていないが、ボルダリングが盛んになった現在、三段と言われ
           ている。
       7月〜1989年3月 「クライミングジャーナル」に「クライミングハンドブック」を連載する。
       7月  アメリカのスミスロックとカナダのスクウォミッシュへクライミングツアーに出かける。スミスロックではチェインリアクシ
           ョンやレイテストレイジ等の.5.12クラスを登り、1986年のリベンジを果たす。
1988年 2月 城ケ崎のしりいだしでトップローププロブレム発表会という名のコンペ形式のイベントを行う。優勝は平山裕示氏。
      ?月 ゴルディアス(5.13a)初登 城ケ崎フナムシのトップロープ課題。後に5.12とされる。
       7月 「クライミングジャーナル」36号で「理想のクライミング」と題した対談に参加。
     8・9月 スミスロックへクライミングツアー。テイクアパウダー(5.12a)やダカインコーナー5.12c等を登る。
1989年 8月 日本初の本格的なコンペティションである大倉カップで、解説を担当する。コンペは1994年にかけて3回目までは昭
          和記念公園(屋外)で、それ以降6回目まで大森ベルポート(屋内)で行われた。
     8〜10月  スミスロックへクライミングツアー。スパルタカス(5.12a)のオンサイト、ゴードッグゴー(5.12c)
             その他5.12クラスのレッドポイント等。
1990年4・5月 フジテレビと日本体育協会等共催の「国際スポーツフェア」の監修を任される。9日間9日間にわたって行われたイ
           ベントでは日本初の国際コンペティションも行われた。ジェリー・モファット、リン・ヒルなど世界トップクラスのクライ
           マーや平山裕示と彼の推薦するフランソワ・ルグラン等を招く手配等に力を尽くす。また、大倉カップで実績を持つ
           堀地清次氏に壁の製作、ルートセッター等を要請した。この時の優勝者は、平山裕示氏。この会期中に常設され
           ていた人工壁でフリークライミングを体験した人は、延べ630人にのぼった。
      6・7月 スミスロック、ヨセミテ、トウォラミメドーズへクライミングツアーに出かける。15年前訪れた時に現地のトップクライマ
           ーが手中にしていた5.11クラスのルートの殆どをオンサイトする事に成功した。クッキークリフにあるクラックアゴーゴ
           ーやレッドジンガー等で夢の実現であった。
1991年3・4月 スミスロック、ジョシュアツリーへクライミングツアー。この時、自分でデザインしICI石井スポーツの靴職人とともに製
           作したクライミングシューズを持ちファイブテン社を訪問する。社長のチャールズとターンインの効用やゴムの開発
           等について熱く語り合う。その時点で開発中であったファイブテン社のステルスシリーズは、その後のクライミング
           界を席巻することになる。
1992年9・10月 イギリスへクライミングツアーに出かけ、クライミングに対する厳しいルールやモラル等、イギリス人特有のロジカル
            な考え方に深く感動する。小さな岩場でどのような方法で取り組めば能力を上げられるか、城ケ崎でのクライミン
            グの方法に多くのヒントを得る。
1994年9・10月 ヨセミテにて5.11〜12のクラックルートを多数登る。
1998年9・10月 アメリカクライミングツアー(ヨセミテ、スミスロック)
2003年4・5月  アメリカクライミングツアー(レッドロックス、ジョシュアツリー)

追悼 森 正弘

 森さんと話をするようになったのが何時ごろからだったのか、ハッキリ思い出すことが出来ません。多分10年以上前であることはたしかです。初めて知り合った頃は、講習生でもないのに講習会に参加させてもらったり、講習中に話し込んだりと講習の邪魔ではないかと思いながらお付き合いさせていただいたのを思い出します。思えば結構長いお付き合いでしたが、その間濃淡があり、空白の期間があったり、またいつの間にか多摩スポーツセンターで講習のお手伝いをしていたりしました。
そんな中、森さんから「癌がある」との電話を貰ったのは2005年9月2日でした。この日の事はハッキリ覚えていて、忘れる事が出来ません。暫く前から顔色が悪い時があったり、また胃の調子が良くないと言っていましたが、バーチャル病の薬の副作用ではないかと聞いていましたので、まさか癌であるとは本当に驚きました。
 森さんはフリークライミングに対する考え方が明確でした。エイドクライミングからマルチピッチまで岩を登る事なら何でもする私とはかなり意見を異にする部分もありましたが、その価値観については常に同意見でした。また、オンサイトを大事にすると言う事が、二人の共通する考え方でもありました。2003年のアメリカ、レッドロックスでの森さんとのクライミングツアーでは、5.12のルートを次々とオンサイトする森さんの姿を見てオンサイトの魅力等教えられる事がたくさんありました。このツアーの間、私にとって休養日はありませんでした。クライミングをしない日は、午前中ラスベガスのゴールドジムでウエイトトレーニング、午後はクライミングジムと言う今では考えられないような毎日でした。私がウエイトトレーニングのデビューをしたのがこの時のラスベガスのゴールドジムで、それもコーチは森さんと言う豪華なデビューでした。
 国内では、有笠山と湯河原の幕岩によく行きました。幕岩では毎回クライミングシューズのテストをしていましたが、私には何時もどのクライミングシューズが今ベターなのか理解出来ませんでした。どうもファイブテンの靴はどれも良いように聞こえて、何故かそのつど買う事になりました。お陰で今では何足ものクライミングシューズが、自宅の引き出しに転がっています。森さんが「これが良い」と言うと本当のように聞こえてしまうから不思議で、この様な被害にあった人は多いのではないでしょうか。これも森さんの人柄のなせる業だったのではないかと、妙に納得してしまうのは私だけでないと思っています。
 9月に全ての検査が終わり主治医による治療方針の説明から、森さんの癌との戦いが始まりました。あまり感情を表に出さない人でしたので、この時の気持ちを知ることはできませんでしたが、癌と闘う気力に満ちていた事に間違いはありません。11月には抗癌剤が利いて講習が出来るまでに回復、希望が持てるところまできたように思えました。しかし、結局この年の12月7日幕岩で行った講習が最後のクライミングになってしまいました。
 森さんが亡くなる日まで、私は友人として森さんの気持ちを聞いてあげることが出来ませんでした。この事が、今でも心残りでしかたがありません。議論が好きだった森さんですから、誰かにもっともっとたくさんの心の内を話したかったのではないかと、思えてならないのです。
 多くのクライマーに、森さんの持っていた知識や考え方、技術を伝えて欲しかった。私が若ければ、森さんの持っている全てを盗み取っていたことでしょう。本当に、残念でなりません。
ご冥福を、お祈りいたします。
 

森さんを偲ぶ  渋谷 正利(HP管理人)